激動の時代を生きた、ある大学生の日記
故郷の栃木県を離れ、京都の大学に通う女性の、1969年正月から約半年間の日記。
高野悦子著。
最後には自死を選ぶ彼女だが、日記なので当然、筋道だったストーリーがあるわけではない。
ただただ彼女が日々考えたこと、行ったことが記されている。
学園闘争が勃発したこの時期。
彼女が当事者としてそれをどう捉え、どう関わったかも記されているが、
それだけでなく、彼女の日常生活の細々とした部分まで記されているのは日記ならではだ。
「日常」こそ、その人を表す
私は人の日記を読むのが好きだ。(でももちろん自分のは絶対に、人に読まれたくない)
『アンネの日記』とか。
日記を書く人にとって、それは自分との対話の機会であることが多いと思う。
予め出版を目的に書かれているものもあるけど、そうではないもの(著者が亡くなった後に公開されたものなど)とは、やはり違うように感じる。
特に、その人の生活が細かく分かるかどうかが違う気がするのだ。
何時に起きたか。どこで何を食べたか、何を買ったか。
そのように、取るに足らないとも思われるようなことも書かかれていて、そういう部分にこそその人の生き様のような部分が表れているような感じがする。
この高野さんの日記の中にもそれは記されている。
目が悪くないし似合わないけどメガネを買う。手元のお金に余裕が無いながらもお酒や煙草を買う。
彼女が孤独や他者との隔たりの中で、ストイックなまでの自己分析や批判を続けたことはこの本を読めば痛いほど分かる。
でも加えて、こういう買い物のような日常的な行動からも、彼女がその時どんなことを考えて、どんなことを大事にしてきたかが想像できる気がする。
全力で自分と向き合っていた人だったのだと思う
本の感想はいつもうまくまとめられないし、今回もそう思うけど、
少なくともこの日記は私の日常的な行動も少しだけ変えてくれている。
自分との対話として、日記を書くようになったのだ。いつまで続くか分からないけど。
いや以前から日記は書いていたのだが、より自分の心の中を書くようになったと思う。
それが何になるか分からないけど、
この本の著者、高野さんが自分と真剣に向き合っていた姿を読んで、
自然とそうしたいと思った。
自分という人間と向き合う時、基本的には恥ずかしい部分は目をつぶったり、嫌な部分を隠そうとしたりしてしまう。
でも高野さんは、この日記を通して、あえて自分の嫌な部分にぶつかっていたように思う。
客観的には、「もっと良い面を見ようよ」とか、「そこまで真剣に考えなくていいよ」とか、そういう言葉を言われるくらいだと思うが、彼女は敢えて目をそらさない。
コメント