最近のいろいろ:書く人、になれない

書くことが習慣にならない

誰に見せるわけでもないけれど、何者でもない自分という存在の記録の場として、ここで何か書きたいと思うのだが、どうも習慣化できない。定期的に文章を書いている人、本当にすごいと思う。

リソースが無い、は言い訳だが…

時間、というかエネルギーが無い。
毎朝起きて、ご飯食べて、仕事して、少し趣味の時間を楽しんで、という日々を過ごしているが、それで精一杯だ。もともと体力気力が少ない方なので、これでもよくやっている。
数年前は、これに加えて資格取得の勉強をしたり、休みの日も朝早くから同僚と山登りやキャンプに行ったり、と割とアクティブに過ごしていたので、単純に体力が衰えたのだと思う。
それもそのはず、ここ2年半ほどはフルリモートのデスクワークで、平日はほぼ動かない。
朝の散歩やヨガを申し訳程度に行っているが、影響はたかが知れている。

憧れの人物タイプの一つが、「平日はアウトドアを楽しむバリバリのサラリーマン」という像なのだが、体力がある人に本当に憧れる。

仕事に加えて、何かに打ち込める&それを定期的に楽しめる余力のある人でありたい。
しかし今のところ私はそうではないので、現在エネルギーを掛けている対象を減らす必要がありそうだ。

時間・エネルギーの割り振りをしたい

私が考える、人が持っているリソースは時間とエネルギー(体力・気力)。
加えてお金もあるけどこれは二次的なものであると考えている。基本は労働の対価であるため。

今キャパシティがフル状態またはオーバー状態なのであれば、何かを減らさなければいけない。
One in, one out.
一つ手にするなら、一つ手放す。
この考え方が好きだ。

書くことなど創作的な活動をしたいので、仕事をもっと効率化するとか、不要なところで気を遣ったり考えすぎるのを辞めるとか、そういうことが必要だ。

理想のコースターとの出会い

以前から何となく「こういう物が欲しいな~」と思っていた物が、ある日突然自分の目の前にやってくる現象がここ最近続いている。
願ってもないラッキーなことだ。

例えばコースター。
2年ほど前から、デスクに置くコースターを探していた。
仕事をする時、マグカップでコーヒーやお茶を飲むが、私のデスクは真っ白なので、カップの跡で汚れてしまうのが気になっていたからだ。
仕事のお供になるので、自分の気分が上がるものを使いたい。基本PCしか置かない真っ白なデスクに置くコースターということで、見た目がしっくりくるものを使いたかった。
部屋の雰囲気やインテリアには自分なりにこだわりを持っているので、デザインを気にせずその辺で調達するのはちょっと違う。
とはいえ、必ず無いとダメなものでもないので、敢えてネットで探すということもしていなかった。

ということで、どこかに出かけてインテリアショップや雑貨店を見つけると、何となくいつもコースターを探していたのだが、気に入るものはなかった。
そもそも見た目でピンとくるものは少なかったり、デザインは及第点でも手触りや厚みが気になったり。

・・・

先日長野県に旅行に行った。周りには何もない自然豊かな場所のコテージに泊まったが、お風呂がないので、一番近い銭湯に行った。車で30分くらいかかる場所だ。
その先頭で、かわいいムーミンのポスターを見つけた。近くの美術館で、ムーミンの作者トーベ・ヤンソンさんの展示が開催されているらしい。ムーミンが特別好きというわけではないものの、この前埼玉のムーミン谷に行ってトーベ・ヤンソンさんの世界観や描くテーマに触れて興味深かったので、今回もその展示に行ってみることにした。

楽しく展示を見た後、美術館内の小さいギフトショップを見たところ、運命のコースターに出会った!
北欧陶器メーカーARABIAの、パラティッシ柄のコースター!
私は以前からこの柄に惹かれるのだが、既に自宅には充分な量の食器があるので、この柄のグッズを買うことはなかった。

そんな中、私が求めていた「コースター」という枠の中で出会えるなんてこの上ない喜びだった。
パラティッシの食器は色んな場所で見かけるが、このコースターは全く見かけたことがない。
値段が想像の5倍くらい高かったので一瞬迷ったが、運命的な出会いに感じたので手に入れた。

今調べたら日本ではあまり多く売られていないようだ。
少なくとも今は、ネットでも販売していない。
もしあの時買わずに、後々思い出していたら後悔していたと思うので、良かった。

・・・・・

こうして、今もPCの左隣にそのコースターがある。
コーヒーの入った同じARABIAのマグカップを置いて、仕事するのが日課だ。
カップを手に取るたび、コースターが目に入るのが日々の楽しみとなっている。

理想のコースターを探している間、私が何かを妥協して他の物を買っていたとしたら、これに出会えなかったかもしれないし、出会っていたとしても、既にあるからという理由で買わなかっただろう。

こういうことがあるから、最近は物事を妥協して決めないということを意識している。
物だけでなくても、人生においては必要なことが必要な時に自ずとやってきてくれる、ということがある気がするのだ。

本の感想『ニ十歳の原点』

激動の時代を生きた、ある大学生の日記

故郷の栃木県を離れ、京都の大学に通う女性の、1969年正月から約半年間の日記。
高野悦子著。
最後には自死を選ぶ彼女だが、日記なので当然、筋道だったストーリーがあるわけではない。
ただただ彼女が日々考えたこと、行ったことが記されている。

学園闘争が勃発したこの時期。
彼女が当事者としてそれをどう捉え、どう関わったかも記されているが、
それだけでなく、彼女の日常生活の細々とした部分まで記されているのは日記ならではだ。

「日常」こそ、その人を表す

私は人の日記を読むのが好きだ。(でももちろん自分のは絶対に、人に読まれたくない)
『アンネの日記』とか。
日記を書く人にとって、それは自分との対話の機会であることが多いと思う。
予め出版を目的に書かれているものもあるけど、そうではないもの(著者が亡くなった後に公開されたものなど)とは、やはり違うように感じる。
特に、その人の生活が細かく分かるかどうかが違う気がするのだ。
何時に起きたか。どこで何を食べたか、何を買ったか。
そのように、取るに足らないとも思われるようなことも書かかれていて、そういう部分にこそその人の生き様のような部分が表れているような感じがする。

この高野さんの日記の中にもそれは記されている。
目が悪くないし似合わないけどメガネを買う。手元のお金に余裕が無いながらもお酒や煙草を買う。

彼女が孤独や他者との隔たりの中で、ストイックなまでの自己分析や批判を続けたことはこの本を読めば痛いほど分かる。
でも加えて、こういう買い物のような日常的な行動からも、彼女がその時どんなことを考えて、どんなことを大事にしてきたかが想像できる気がする。

全力で自分と向き合っていた人だったのだと思う

本の感想はいつもうまくまとめられないし、今回もそう思うけど、
少なくともこの日記は私の日常的な行動も少しだけ変えてくれている。
自分との対話として、日記を書くようになったのだ。いつまで続くか分からないけど。
いや以前から日記は書いていたのだが、より自分の心の中を書くようになったと思う。

それが何になるか分からないけど、
この本の著者、高野さんが自分と真剣に向き合っていた姿を読んで、
自然とそうしたいと思った。

自分という人間と向き合う時、基本的には恥ずかしい部分は目をつぶったり、嫌な部分を隠そうとしたりしてしまう。
でも高野さんは、この日記を通して、あえて自分の嫌な部分にぶつかっていたように思う。
客観的には、「もっと良い面を見ようよ」とか、「そこまで真剣に考えなくていいよ」とか、そういう言葉を言われるくらいだと思うが、彼女は敢えて目をそらさない。

日常から離れるサードプレイスを見つける

家でも職場でもない、サードプレイス。
毎日行く場所ではないけど、考えたい時、集中したい時、日常から離れたい時、
そんな時に行ける場所があると人生がより豊かになる気がするのです。
「人生が豊か」というと大げさな表現だけど、「ちょっと得する」、そんなイメージ。

定期的に、日常から離れる必要がある気がする

ここ数か月、自分にはサードプレイスが必要だと感じていました。
特に私はフルリモートで働いていて、家と職場が同じ部屋なので、日常的な移動が少ないことがそう考える理由の一つだと思います。
けど何よりも、「日常生活の中では疎かにしてしまうけど大事なこと」がたくさんあると思い始めたのです。

読書や勉強に集中することや、ライフプランを見直すこと、ごちゃごちゃした頭の中を整理すること…etc。
仕事や家事、その他の身の回りのことに溢れている日常生活では、なかなか向き合えないこと。

それをやる場所が必要だ!という気持ちが大きくなり、サードプレイス探しを始めました。

図書館、カフェ、別荘。サードプレイスはどこでもいい

結論、サードプレイスの条件は人それぞれで、どこでもいいのだと思います。
私の条件は、
・自然を眺められる場所
・車など人工物をあまり感じない場所
・定期的に通える場所(車で2時間以内とか)
の3つでした。

正直、家探しのように最初から上記の条件をしっかり決めていたわけではなく、もっとゆるーく探しているのですが。後から振り返るとこれが条件だったなあという感じです。

自分にはあの場所がある。と思えるだけで少しうれしい。

ゆるーいサードプレイス探しの結果、定期的にここに来たいな、と思える場所が2か所あります。
それは別途書くとして。
そういう場所を見つけたことも嬉しいし、「またあそこに行こう」と思える場所があるって、素敵なことだなと思います。

大変なことがあっても、時に自分を見失っても「自分にはあの場所がある」と思えることってきっと強い。
だから、サードプレイスがあれば人はより豊かになれる(精神的に)と思います。

本の感想『グレート・サークル』

飛ぶことを負い続けた女性の一生涯

ある女性パイロットが主人公。
彼女の、ほぼ誕生から死去までを描いているため、かなりの長編大作である。
約800ページ。
Kindleで購入したのでそのボリューム感を知らずに読み始めたところ、読書の進み具合を表す%がなかなか進まずにびっくり。
あまりの長さに途中は距離を置きながら読んだものの、数か月かけてやっと読了した。
特に後半からは一気に物語が進み、読むスピードも加速した。

酸いも甘いもある、それでこそ人生

パイロットの冒険小説ということで、メカ好きの主人公目線での飛行機に関する詳しい描写や、色々な土地の上空を旅する壮大さなど、この小説の特徴はたくさんある。

でも特に私の心に残ったのは、主人公のマリアン含め、周りを取り巻く人物の生涯の、良い面とそうでない面が両方しっかりと描かれている感じがしたということ。

パイロットになりたいという確固たる意志を持ちながら、決して裕福ではないマリアンが、どうやって飛行機の操縦を習い夢を実現できたのか。
それはおそらく美談では片づけられない、痛みや傷、もしかしたら恥ずかしさを伴うもの。

マリアン含めてほぼ全ての人物は、綺麗な道だけを歩んできたとはいえない。
そこも生々しく描かれているのがリアルだなと感じて、少し心を痛めながら読んだ。

もう一人の主人公、ハリウッド女優との交差が面白い

今(マリアンが居ない時代)と昔(マリアンが生きていた時代)を行き来する構成であることは、この小説の特徴の一つといえる。
現代のストーリーの主人公は、お騒がせハリウッド女優のハドリー。
しばらくは、ハドリーの話の存在意義があまりよく分からなかった。
でも最後まで読んで、ハドリーだけが見つけた真実があったことに、そしてその真実はおそらくハドリーしか見つけられなかったということに、マリアンとハドリーという2人の女性が異なる時代でお互いの人生に触れたことに、この小説の面白さを感じた。

少なくとも私は予想できるような分かりやすい結末ではなく、最後までどきどきしながら読んだ。

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自分の心のペースはどんなだろう

時間の流れって、人によって違う

都会と田舎。
歴史ある企業とベンチャー企業。
せっかちな人とのんびりな人。

環境や人によって、時間の流れが違う。
色んな時間の流れがある中で、人によって周りの速さに合わせたり、
あえて合わせずマイペースに過ごす人がいる。

この時間の流れは、表面的には「仕事の速さ」とか「話すスピード」、「頭の回転の速さ」とかで分かりやすいけど、最近それらとは別に「心の時間の流れ」ってもんがあるんじゃないかなと気付き始めた。

心のペースってもんがある

私は比較的何事も周りに合わせたいと思うタイプで、仕事や周りの人のスピード感に無意識に合わせていることが多い。

でも最近、特に大変なことや嫌なことがあるわけではないのに疲れている自分に気付いた。
それは本来の自分のスピード感からやや無理をして周りのペースに合わせていたからなのかもしれない。
もちろん合わせたくて合わせているし、そうしなきゃいけないシーンもある。

でも、やっぱり小走りばかりしていると疲れる。
そういうことを今になって気付いたので、自分のことであっても、なかなか表面的にわかりづらいことなのだと思う。自分が鈍感かもしれないのだが。
だから、最近はそれを心のペースと呼んで、意識しようとしている。

心のペースを整える休み方が必要

だから、休み方が大事という気付きがあった。
私は無意識に、自分一人の時間があっても色々タスク化したり、何となくムダに過ごすのが嫌で無目的に出かける、みたいな休日の過ごし方をしていることが最近多い。
休日だけでなく、毎日仕事が終わっても、出来る限り早くやること終わらせて早く布団に入るべし!
という風に考えていた。

でもそういう時、心のペースは変わらず小走りである。
そりゃ、疲れるよね。
だから自分の心のペースを理解して、一旦走るのを止めてペースを取り戻す時間が必要だ。

私は、ただ夕日を見てぼーっとしたり、風を感じたりすることが合っていると気づいた。
そういう時間を「回復時間」と称して、なるべくそういう時間を取るようにしている。

買い物、というコミュニケーション

数年前から、お金を払うことってコミュニケーションの一つだな、という考えを持ち始めた。
それによって少し生活が変わったりしていると思う。

「買う」は、意思表示

まあ当然なのだけど、買うという行為はその商品が欲しいから行う。
商品を作っている会社は、自社の商品が売れれば売れるほど、これを必要としている人がたくさんいるんだなと認識して、じゃあこの商品を作り続けよう、もっとたくさん作れるように頑張ろう、という風に考える。
だから、自分の生活に必要だと思うものは買い続けるし、これは要らないかも?前より悪くなったかも?というものは買うのをやめたり、他の会社の製品を買うようになったりする。

直接エールを届けたい

だから一番分かりやすい応援は、製造元から直接買うことだと思う。
リアルでもネットショッピングでも、同じ商品だとしても色々なお店で売っているから、買おうという気持ちとお金さえあればどこでも手に入れられるものが多い。
特に最近は、メルカリなどもあるし、新品を買わない手段もある。
自分が「ものを手に入れる」という観点では、どんな経路で買ってもいいと思う。
でもやはり、それを作った人にできる限り近い場所で買うことで、自分がそれを必要としているという熱量を多く届けることができる。

作った人から直接買うことができれば、欲しいという気持ちがそのまま伝わるし、加えてなんでそれが欲しいか?気になるか?ということを伝えたり、応援のメッセージを伝えることができるかもしれない。
でも他の店で同じものを買ったら、欲しい人がいる、ということだけを伝えることはできるけど、誰が、どうして、どれだけの気持ちで欲しいのか、ということは伝わらないかもしれない。

だから、そういう気持ちを少しでも届けるために、可能な限り直接買いたいなと思っている。
直接買うことが難しかったとしても、作った人にしっかりと還元されるような経路で買うのがいいなと思っている。

応援したい人と、つながる

分かりやすいのは、本かと思う。
好きな著者がいたとして、メルカリやブックオフで中古本を買っても、著者の周りには何の変化もないだろう。
でも書店やAmazonで買ったら、出版社等を通じて、どれくらいの人が自分の本を求めているかというデータの一部になることができる。
それはほんの僅かであったとしても、買った自分と作った人のつながりになると思っている。
コミュニケーションの一つと感じる。

こう書いていながらも、全ての買い物においてそう考えているわけではないし、
メルカリも日常的に使わせていただいているけど、
特別に応援したい人や会社があるとしたら、せっかくなら、彼らと繋がる方法で意思表示していきたいなと思う。

記憶は失われる、だから残さなければ

3カ月ぶりに会った友達との会話。
「この3か月、何してた?」という友達からの質問に対して、私は「何もしてないよー変わらない日々!」と答えた。
その瞬間は本気で、数か月何も特別なことをしていないと思ったのだけど、iPhoneのカメラロールを観たらめちゃくちゃ色々やってた。楽しんでいた。
ディズニーシーへ行ったり、その足で京都に行って1週間ほどワーケーションしてたり、東京モビリティショーへ行ったり、それとは別に東北へ数日間旅してた。
写真を見返しただけでも、色々な場所へ行って色々なことをしているのに、それが記憶として出てこない自分にショックを受けた。
さすがに日々を無意識に過ごしすぎなのでは?
何かをした事実を思い出せないのだから、そこで感じたこと・思ったことは当然忘れている。

このブログも久々に開いたが、下書き中の記事に全く記憶のないタイトルのものがあった。
中身を数回読んで、やっと当時書きたかったことを思い出した。

こんな風に、自分の周りで起こったこと、自分の中で考えたことを全て忘れてしまうのは寂しい。
せっかく楽しんだのに忘れてしまうなんてシンプルに勿体ないし、人は色々な出来事を経て変わり続けるのに、そのプロセスを忘れてしまっては自己理解もままならない。

だから、思い出や、そこから感じたことは、できる限り残していきたいと思う。
写真に残すだけではなく、こうして文章でも残したい。
言語化するのはエネルギーを使うし、人に見られる恥ずかしさも少しあるけれど、こうして実体として残すことで、思い出はさらに自分の一部となると思う。

日常をアップデートする、旅

私にとって、旅とは。

定期的に旅行に行っている

コロナが落ち着いてきたここ1,2年、結構旅行に行けている。
先日は奈良・和歌山方面へ出かけた。
旅行は好きだけど、必ず〇カ月に1回行く、とかではないし、
そもそも自分がなぜ旅行が好きなのか言語化できていなかった。

今回の旅行は、直前までは色々バタバタしていたので体力気力が消耗しており、
正直「行かなくていいかな」という気持ちも半分あったのだけど、
行ったらもちろん楽しかったし、自分が旅を好きである理由とかに少し気付けた気がするので、
メモしておきたい。

非日常から、日常へのインスピレーションを受ける

多分、私にとっての旅の意義はこれである。
日常と切り離された環境に身を置くことで、
「日常をこういう風にしたい!」という気持ちが湧きおこる気がする。

例えば、
■食事・・・普段食べないけど、これ美味しい!家でも食べようと思う
   ・・・料理の盛り付けに対して、こうやればお洒落なのか~やってみよ、と思う
■宿 ・・・日常に比べてノイズが無いので、時間の使い方について考えさせられる
   ・・・くつろげるインテリアのインスピレーションを受ける
■精神・・・(観光に行く場所に依るけど)考え方や、物事の受け取り方を考えさせられる
などなど。
その他にも色々あるけど、非日常で気づきを得て、それを日常に反映させていく、
というのが自分なりの旅の醍醐味っぽい。

今回は精神面でのアップデートが多かった旅

今回は、奈良の遺跡や和歌山の高野山をメインに出かけた。
私は歴史の知識が壊滅的なのだけど、
今回は歴史的な場所に行ったことで、禅的な思想であったり、わびさび的な概念だったり、
精神面・マインド面で学べたことが多かった。

また今回行った観光地ではどこもインバウンドの人がたくさんいて、
何だか嬉しい気分になった。
時間やお金をかけて遠い日本に来たという強いエネルギーがあることに対して、
純粋に格好いいなと思うし、
そんな彼らの表情はやはり生き生きとしていて、
自分の人生を楽しんでいる、ということが伝わって私も嬉しい気持ちになった。

最近の世界情勢を見ると、ちょっと躊躇してしまうけど、
私も近いうちに海外にも行きたいと思い、頭の中で少し直近のライフプランを修正した。

それも精神面をアップデートできた出来事だった。

猫は、いつも寝る場所がちがう

うちの猫、ピピ氏は、寝床をたくさん持っている。
私はいつも自分の布団でしか寝れないが、猫のようにどこでも寝れたらいいなって思った。

ピピ氏が持つ、9か所の寝床

ピピ氏の寝床は、私が認識してる限り9か所ある。
私の部屋(6畳)の中でも、下記4か所をローテーションしている。
 ①デスク棚の上(ピピ氏特設ベッド)
 ②本棚の下の段(ピピ氏特設ベッド)
 ③私の布団の上(人間の足元)
 ④私の枕元
その他、部屋の外だと、
 ➄部屋の入口の廊下
 ⑥和室のど真ん中
 ⑦ソファの上
 ⑧キッチンの入口
 ⑨キッチンの食卓の下
このいずれかで寝ることが多い。
逆に、これら以外の場所では寝ないから、こだわりはあるのだろう。

どういう使い分け??

私としては、③④で間近で寝てくれる時が一番幸せなのだけど、暑い日は絶対に来ない。
気温で使い分けている節はありそうだ。
実際に、真夏の暑さのピーク時はほぼ⑨キッチンの食卓の下で寝ている。
でもそれ以外は、そこまで気温による差はない様子なので、
どういった要因でその日の寝床を決めているのか、すごく気になる。

どこでも寝れたらいいよね、という話

まあ残念ながらその問いに答えてもらえることはないのだけど、
ピピ氏のように、その日の感じで寝床を決められる生き方はいいなと思う。
私は基本、自分の布団でしか寝れない。
昔は違ったけど、今はこたつとか、ソファとかではあまり寝れず(昼寝はあるが)、寝床は一つだ。
あと基本的に、同じ枕じゃないと寝れない。過去にプレゼントしてもらったオーダーメイド枕だ。
旅行に行くとき車中泊をするけど、必ずこの枕も持っていく。

こんな風に、寝る環境にこだわってしまうけど、
ピピ氏のように、寝れる場所がいくつかあるということは、その数だけ自分が安心できる場所があるということだ。
寝るということは、脳波を落として、自律神経もリラックスモードに切り替えて、身体や気持ちの緊張を解くこと。
それがどこでもできるというは、生きる上で強いと思う。
余計なストレスを溜めないで済みそうだ。

もちろん猫の眠りは、何かあればすぐ反応できるように浅いという違いはあるかもしれないけど、
自分にとってリラックスできる場所を増やすというのは、真似してみたい。